2018-01-01から1ヶ月間の記事一覧

2世紀の世界とは

2世紀のはじめごろ 日本では、石器がなくなり、鉄器が普及するとあります。 倭が、盛んに(弁韓・辰韓)の鉄を輸入しているということか。 147年ごろ~189年ごろ 倭国大乱 恒霊の間 なぜ大乱がおきるのか、奴の国を中心とした北部九州の連合国 にたい…

黄巾軍の乱平定後の後漢王朝

三国志の英雄たち、曹操・劉備・孫権は、この頃、まだかけだしのころで、歴史の表舞台に登場するのは、ずっと、後のことである。 3人のうち、曹操が先に、郡太守に任命されたりして、力をつけていった。 188年軍事力を強化するために、「八校尉」の官が…

帯方郡

後漢末期の3世紀初めごろ遼東太守であった公孫度の息子公孫庚が、後漢の混乱に乗じて独立。楽浪郡の南を分割・植民地化した。 女王卑弥呼が率いる邪馬台国が、帯方郡を通じて交流・先進文化の吸収 を図ったのはいうまでもなく、公孫子が魏に滅ぼされるまで…

黄天泰平

184年 蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。歳は甲子にありて、天下大吉 蒼天は漢のこと、黄天は、太平道のことで、漢に代わって太平道の天下になる・・・ という、スローガン。 「黄巾軍」とよばれる。 黄巾軍の嵐が吹き荒れている頃、討伐のため 後の…

後漢王朝の混迷  ・   倭国大乱

少年皇帝霊帝の政治 が悪く国が乱れはじめた。 黄巾の乱というのが起こり、(184年) 政治が混乱しはじめた。 また、倭も後漢の内乱によって、後漢の後ろ盾がなくなった状態になったので、伊都国を中心とする連合体は、従来のような交易の独占といったこ…

倭国王 師升等 後漢に朝貢

漢委奴国王 の印綬をうけてから50年 紀元107年に 後漢に倭国王 師升 後漢に朝貢するとある。 相手は、奴国のときは漢でしたが 新の国をへて後漢に朝貢した。 この間 奴国連合国が弱体化して伊都国を中心とする周辺諸国が 台頭してきた。 その勢力が後漢…

漢委奴国王

志賀島 志賀島といえば、金印が有名。 記録によると天明四年(1784)年、島の百姓甚兵衛が、おおきな石をのけようとして、偶然発見した。 この金印は、藩主黒田家の家宝となる。 大きさは、二・三センチ平方、重さ一0八グラム。 表面は、「漢委奴国王」…

楽浪郡

楽浪郡は、紀元前108年、朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした漢により設置された。以後西暦313年まで存在した。 中華文明の窓口であり南部韓国・日本列島の先進文明の受容に大きなやくわりを果たす。 のちの倭は、楽浪郡の力を背景に勢力をのばし…

最古の王墓

吉武高木遺跡なるものがあります。博多湾沿岸の中央にあり、早良平野に流れる室見川の中流域に存在します。 紀元前3世紀ごろ、副葬品からして朝鮮半島からの伝来とみられる。 木棺墓からみつかった副葬品に多紐細文鏡、青銅製の武器、勾玉、碧玉製の管玉、…

稲作

稲作の伝来によって、従来の狩猟から農耕へと変化してゆき、日本列島は飛躍的に集団生活が進みムラからクニへと規模が拡大していった。 なぜ稲作が伝わってきたか、ひとつは、呉・越といった国が中国大陸のそれも長江流域に繁栄していましたが、紀元前334…