2018-01-01から1年間の記事一覧

空白の4世紀(2)

前回に、続いて、王 義之について、なぜ詳しく書きたいか、1700年余前に、生まれた人々が、倭の国では、ぼんやりしている歴史を、実に詳しく 残っているからです。 本当は、王 義之というひとは、立場からいえば、軍人・政治家として、精進すべきで、本…

空白の4世紀

東晋の4世紀 王 義之(303年~361年) 王 義之は、書聖とよばれ、唐の太宋の支持を得、有名な蘭亭序を残している。304年 王 義之が生まれたころ、匈奴は、晋から離れ、独立して国を作った。 313年 晋の懐帝が平陽に連行される。 318年 東晋…

新羅

新羅という国は、紀元前57年~935年まで続いた。 広開土王碑によると、この時期は、高句麗によって支配されている状況。 新羅の建国は、伝承によると、秦の苦役を避けて韓国にやってきた昔の逃亡者で、馬韓が東の地を 割譲した。言語は、秦人に類似して…

空白の4世紀

倭では、崇神天皇・東晋では、王義之・百済では、近肖古王・高句麗では、美川王などが、それぞれの国で4世紀半ばごろ、活躍している。306年に西晋が滅び、313年に楽浪郡・帯方郡が滅び、中国の王朝の支配から、 北部は高句麗、南部は、百済・新羅と三…

神功皇后と好太王

神功皇后とは、仲哀天皇の皇后であり、母方は、新羅の王子アメノヒボコの末裔でもある。 神功皇后といえば、三韓征伐で有名ですが、仲哀天皇の急死後、熊襲を討伐し、朝鮮半島に兵を進めた。 新羅・高句麗・百済と征伐したとある。その当時で、好太王碑とい…

成務天皇

13代成務天皇は、日本武尊の弟にあたる。 事績は、国の行政区画の整備、国造・稲置を任命し、国の行政のしくみを整えた。 朝鮮との関係はあまりなく、次代の仲哀天皇・神宮皇后のとき朝鮮・日本は、動乱の時期を迎える。

景行天皇の事績

九州で熊襲が反乱。天皇みずから親征、豊前の国 京都郡に行宮を設営。土蜘蛛を討伐し日向に入り、熊襲を平定、6年を有した。 武内宿禰を、北陸・東方の国々を視察させる。数年後、熊襲が再度反乱。日本武尊に征討を命じる。 反乱を平定。次に、蝦夷征討を命…

垂仁天皇

11代天皇。 業績は、伊勢神宮の建立。 殉死の風にかえて、埴輪を埋納する。 崇神天皇の全国統一の流れを推進。 この時期 新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝とある。

崇神天皇の時代

崇神天皇の時代を、350年ごろと比定すると、同時代では、王義之・肖子王が活躍した時代である。崇神天皇の功績は、欠史時代とよばれた前の時代から、大きく領土をひろげ大和朝廷の礎を築いたことによります。纏向遺跡群は、その象徴ととれます。 崇神天皇…

百済

中国は、五胡十六国の乱 といわれる動乱時代へ突入。 高句麗は南下して楽浪郡を攻め落とした。(313年) 百済は、馬韓諸国を併合して帯方郡を占領。当時の王は、比流王であり、楽浪郡の崩壊によって、楽浪郡の人・物・文化等々が流入してきて、かえって国…

高句麗

高句麗(紀元前37年~668年) 高句麗の起源は、漢王朝が設置した玄菟郡の高句麗県に由来。 初代は、朱蒙 [東明聖王)といって、韓国のドラマにもでてきます。もともとは、扶余の王の庶子、他の7人の王子と対立して、亡命して 高句麗を建国とある。 時…

空白の4世紀

台与が266年 朝貢した西晋も290年武帝が亡くなると、後継者が暗愚なため、皇族の間で内紛が起きた。八王の乱がはじまり、304年には、匈奴は自立するようになった。 7年後の311年、永嘉の乱といって、異民族が洛陽に攻め入って時の皇帝 懐帝は、…

欠史八代

欠史八代なんていわれ、第十代崇神天皇は、実在するが、それ以前の天皇は実在しないという説もありますが、私は、実在説をとり、 1、古事記には、神武天皇の死後、長子の多芸志美美命は、神武天皇の皇后にあたる伊須気余理比売と結婚している。 2、古事記…

ニギハヤヒとは

ニギハヤヒとはいったいなにものか。神武東征以前にさきに畿内に進出した邪馬台国から派遣された。詔をうけ、河内の国、鳥見の白庭山に遷る。 生駒山麓の日下の土地は、古代 物部氏の根拠地である。 その時、物部氏とともに蘇我・平群・巨勢・葛城氏らがやっ…

台与以後

卑弥呼亡くなり、男王立つが国おさまらず、共立して台与を擁立する。国治まる。台与13才。 中国では、司馬氏が、晋を興し、蜀、呉を滅ぼし中国を統一する。 百済・新羅も、馬韓・辰から大きく発展するようになる。 同じく倭も邪馬台国も中国をみているので…

卑弥呼の宗女 台与

248年ごろ 卑弥呼死す。 男王立つも諸王従わず。 国乱れる。 台与共立。 国おさまる。 台与 13才 266年 倭 晋に朝貢。 台与 30才ぐらいか。以後 中国の文献途絶える。 倭国・邪馬台国の歴史がわからなくなる。 歴史は、倭の五王までまたなければなり…

邪馬台国の外交

恒霊の間 倭の大乱で国おおいに乱れ 卑弥呼が共立され、邪馬台国連合ができた。 楽浪郡 帯方郡の設置以後も交流が続いていたと思われます。公孫氏が滅び魏が帯方郡を支配 するようになると、すぐに使節を送ったり。 晋の国が興るとすぐに反応するように、 邪…

3世紀の世界とは

3世紀の世界204年 遼東の公孫氏が、楽浪郡の南部に帯方郡を設置する。 倭の邪馬台国も交易していたであろう。208年 有名な赤壁の戦い。劉備・孫権軍が、曹操を破る。 以後、三国にわかれてゆく。220年 後漢の献帝 禅譲 曹丕皇帝となり魏をおこす。22…

2世紀の世界とは

2世紀のはじめごろ 日本では、石器がなくなり、鉄器が普及するとあります。 倭が、盛んに(弁韓・辰韓)の鉄を輸入しているということか。 147年ごろ~189年ごろ 倭国大乱 恒霊の間 なぜ大乱がおきるのか、奴の国を中心とした北部九州の連合国 にたい…

黄巾軍の乱平定後の後漢王朝

三国志の英雄たち、曹操・劉備・孫権は、この頃、まだかけだしのころで、歴史の表舞台に登場するのは、ずっと、後のことである。 3人のうち、曹操が先に、郡太守に任命されたりして、力をつけていった。 188年軍事力を強化するために、「八校尉」の官が…

帯方郡

後漢末期の3世紀初めごろ遼東太守であった公孫度の息子公孫庚が、後漢の混乱に乗じて独立。楽浪郡の南を分割・植民地化した。 女王卑弥呼が率いる邪馬台国が、帯方郡を通じて交流・先進文化の吸収 を図ったのはいうまでもなく、公孫子が魏に滅ぼされるまで…

黄天泰平

184年 蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。歳は甲子にありて、天下大吉 蒼天は漢のこと、黄天は、太平道のことで、漢に代わって太平道の天下になる・・・ という、スローガン。 「黄巾軍」とよばれる。 黄巾軍の嵐が吹き荒れている頃、討伐のため 後の…

後漢王朝の混迷  ・   倭国大乱

少年皇帝霊帝の政治 が悪く国が乱れはじめた。 黄巾の乱というのが起こり、(184年) 政治が混乱しはじめた。 また、倭も後漢の内乱によって、後漢の後ろ盾がなくなった状態になったので、伊都国を中心とする連合体は、従来のような交易の独占といったこ…

倭国王 師升等 後漢に朝貢

漢委奴国王 の印綬をうけてから50年 紀元107年に 後漢に倭国王 師升 後漢に朝貢するとある。 相手は、奴国のときは漢でしたが 新の国をへて後漢に朝貢した。 この間 奴国連合国が弱体化して伊都国を中心とする周辺諸国が 台頭してきた。 その勢力が後漢…

漢委奴国王

志賀島 志賀島といえば、金印が有名。 記録によると天明四年(1784)年、島の百姓甚兵衛が、おおきな石をのけようとして、偶然発見した。 この金印は、藩主黒田家の家宝となる。 大きさは、二・三センチ平方、重さ一0八グラム。 表面は、「漢委奴国王」…

楽浪郡

楽浪郡は、紀元前108年、朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした漢により設置された。以後西暦313年まで存在した。 中華文明の窓口であり南部韓国・日本列島の先進文明の受容に大きなやくわりを果たす。 のちの倭は、楽浪郡の力を背景に勢力をのばし…

最古の王墓

吉武高木遺跡なるものがあります。博多湾沿岸の中央にあり、早良平野に流れる室見川の中流域に存在します。 紀元前3世紀ごろ、副葬品からして朝鮮半島からの伝来とみられる。 木棺墓からみつかった副葬品に多紐細文鏡、青銅製の武器、勾玉、碧玉製の管玉、…

稲作

稲作の伝来によって、従来の狩猟から農耕へと変化してゆき、日本列島は飛躍的に集団生活が進みムラからクニへと規模が拡大していった。 なぜ稲作が伝わってきたか、ひとつは、呉・越といった国が中国大陸のそれも長江流域に繁栄していましたが、紀元前334…