景行天皇の事績

九州で熊襲が反乱。天皇みずから親征、豊前の国 京都郡に行宮を設営。土蜘蛛を討伐し日向に入り、熊襲を平定、6年を有した。
武内宿禰を、北陸・東方の国々を視察させる。

数年後、熊襲が再度反乱。日本武尊に征討を命じる。 反乱を平定。次に、蝦夷征討を命じる。陸奥の国に入り、蝦夷平定。
その後、茨城・甲斐・信濃を経て、尾張に戻り、みやずひめと結婚。 後、近江国に出向くが、身体不調になる。伊勢の国に入るが、
能褒野(三重亀山市)で、病篤く崩御。 白鳥陵に葬る。
日本武尊が詠んだとされる歌は、     倭は、国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭うるはし

景行天皇の時代は、垂仁天皇の全国統一路線の継続、発展をめざしたものといえる。  有名な日本武尊の活躍は、この時代
の有り様を象徴している。

崇神天皇の時代

崇神天皇の時代を、350年ごろと比定すると、同時代では、王義之・肖子王が活躍した時代である。崇神天皇の功績は、欠史時代とよばれた前の時代から、大きく領土をひろげ大和朝廷の礎を築いたことによります。纏向遺跡群は、その象徴ととれます。
崇神天皇が、派遣した四道将軍吉備津彦の命・大彦の命・丹波の道主の命・武渟川別の命)
吉備津彦は、岡山方面  大彦は、北陸方面 丹波の道主は、丹波・丹後方面 武渟川別は、東方の十二道 会津方面   にそれぞれの地方を平定させた。
大和朝廷の進撃は、垂仁天皇へと受け継がれてゆく。

百済

 中国は、五胡十六国の乱 といわれる動乱時代へ突入。 高句麗は南下して楽浪郡を攻め落とした。(313年)
百済は、馬韓諸国を併合して帯方郡を占領。

当時の王は、比流王であり、楽浪郡の崩壊によって、楽浪郡の人・物・文化等々が流入してきて、かえって国力が強大化していった。
倭はどうなったか、当然 衝撃を受けたであろう。たぶん 神武天皇から6代目か7代目ぐらいの天皇の時期ではないか。
朝鮮半島とのつながりがあるとすれば、伽耶との関係。

高句麗百済新羅伽耶・倭の勢力図が、どう変化してゆくか。

百済は、近肖古王(346年~375年在位) が、百済の全盛時代をつくりあげる。

369年 七支刀 百済より倭に送られる。
370年頃 阿直岐王仁らの学者が、倭に渡って漢学を伝える。

高句麗

高句麗(紀元前37年~668年) 
 高句麗の起源は、漢王朝が設置した玄菟郡高句麗県に由来。
初代は、朱蒙 [東明聖王)といって、韓国のドラマにもでてきます。もともとは、扶余の王の庶子、他の7人の王子と対立して、亡命して
高句麗を建国とある。  時代はながれて、15代の王 美川王(300年~331年在位)  313年楽浪郡を攻撃した王である。

この王は、苦労人で、面白いエピソードをもつ   293年先代の王が、自分の父(王の弟)に犯意あるとして、死を賜ったとき、王宮を逃げていた。
                             その間市井でさまざまな苦労をしたとある。先代王の暴政で廃位しょうとしていた国相は、後の美川王を
                             探して、匿って、後王位につける。   こういった当時の時代背景があるというのは、面白い。  

313年、300年続いた楽浪郡帯方郡は中国本土の内乱によって、孤立化、高句麗によって滅亡。
結果・両郡を通じての西晋との外交・通商はとだえる。
朝鮮半島・倭は、統一した国家を形成するように、百済新羅伽耶大和朝廷へと時代の潮流は歴史の流れとなって、激動の時代へと
つき進んでゆくことになる。

高句麗は南下政策をとってゆくが、南の百済は楽浪・帯方の人・物を引き継いで、国としては強大化していった。

空白の4世紀

台与が266年 朝貢した西晋も290年武帝が亡くなると、後継者が暗愚なため、皇族の間で内紛が起きた。八王の乱がはじまり、304年には、匈奴は自立するようになった。
7年後の311年、永嘉の乱といって、異民族が洛陽に攻め入って時の皇帝 懐帝は、前趙の都 平陽に連行され、
313年に殺された。
次に即位した皇帝も、316年、連行され、殺された。

江南に都を移し、東晋と呼ばれるようになった。政権は王氏一族が主導して、政権を確立していった。
339年 王氏一族の重鎮王導が亡くなり、政権を握ったのは恒温である。
373年 恒温の死後、政権を担ったのは、謝安である。
政権が何度か変わった後、420年強大な権力を得た劉裕は、禅譲を受けて宋朝が、建国され、東晋滅ぶ。

東晋時代の有名人といえば、王羲之(303年~361年)の人。
5代目皇帝 孝宗(在位344年~361年) 恒温が権力者だった時代。

蘭亭序 あまりにも有名な王羲之の書。

王羲之は、東晋というなんともいえぬ波乱万丈の国で生き抜いてきた人のようです。

欠史八代

欠史八代なんていわれ、第十代崇神天皇は、実在するが、それ以前の天皇は実在しないという説もありますが、私は、実在説をとり、
1、古事記には、神武天皇の死後、長子の多芸志美美命は、神武天皇の皇后にあたる伊須気余理比売と結婚している。
2、古事記によれば、第6代の孝安天皇は、姪の忍鹿比売と結婚して、第7代孝霊天皇を生んでいる。
3、古事記日本書紀によれば、第9代開化天皇は、父帝である第8代孝元天皇の死後、父帝の皇后である伊迦賀色許売命と結婚している。
  そして、崇神天皇を生んでいる。
 

初期の天皇は、その土地の豪族の娘と結婚する例が多い。
都の場所は、初期天皇は、葛城地方の狭い範囲に置かれていた。
初期天皇の陵墓は、葛城地方に存在した。

5代孝昭天皇より、外戚としての豪族が、尾張の連・穂積の臣など、がでてきます。