景行天皇の事績
九州で熊襲が反乱。天皇みずから親征、豊前の国 京都郡に行宮を設営。土蜘蛛を討伐し日向に入り、熊襲を平定、6年を有した。
武内宿禰を、北陸・東方の国々を視察させる。
数年後、熊襲が再度反乱。日本武尊に征討を命じる。 反乱を平定。次に、蝦夷征討を命じる。陸奥の国に入り、蝦夷平定。
その後、茨城・甲斐・信濃を経て、尾張に戻り、みやずひめと結婚。 後、近江国に出向くが、身体不調になる。伊勢の国に入るが、
能褒野(三重亀山市)で、病篤く崩御。 白鳥陵に葬る。
日本武尊が詠んだとされる歌は、 倭は、国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭うるはし
景行天皇の時代は、垂仁天皇の全国統一路線の継続、発展をめざしたものといえる。 有名な日本武尊の活躍は、この時代
の有り様を象徴している。
高句麗
高句麗(紀元前37年~668年)
高句麗の起源は、漢王朝が設置した玄菟郡の高句麗県に由来。
初代は、朱蒙 [東明聖王)といって、韓国のドラマにもでてきます。もともとは、扶余の王の庶子、他の7人の王子と対立して、亡命して
高句麗を建国とある。 時代はながれて、15代の王 美川王(300年~331年在位) 313年楽浪郡を攻撃した王である。
この王は、苦労人で、面白いエピソードをもつ 293年先代の王が、自分の父(王の弟)に犯意あるとして、死を賜ったとき、王宮を逃げていた。
その間市井でさまざまな苦労をしたとある。先代王の暴政で廃位しょうとしていた国相は、後の美川王を
探して、匿って、後王位につける。 こういった当時の時代背景があるというのは、面白い。
313年、300年続いた楽浪郡・帯方郡は中国本土の内乱によって、孤立化、高句麗によって滅亡。
結果・両郡を通じての西晋との外交・通商はとだえる。
朝鮮半島・倭は、統一した国家を形成するように、百済・新羅・伽耶・大和朝廷へと時代の潮流は歴史の流れとなって、激動の時代へと
つき進んでゆくことになる。
空白の4世紀
台与が266年 朝貢した西晋も290年武帝が亡くなると、後継者が暗愚なため、皇族の間で内紛が起きた。八王の乱がはじまり、304年には、匈奴は自立するようになった。
7年後の311年、永嘉の乱といって、異民族が洛陽に攻め入って時の皇帝 懐帝は、前趙の都 平陽に連行され、
313年に殺された。
次に即位した皇帝も、316年、連行され、殺された。
江南に都を移し、東晋と呼ばれるようになった。政権は王氏一族が主導して、政権を確立していった。
339年 王氏一族の重鎮王導が亡くなり、政権を握ったのは恒温である。
373年 恒温の死後、政権を担ったのは、謝安である。
政権が何度か変わった後、420年強大な権力を得た劉裕は、禅譲を受けて宋朝が、建国され、東晋滅ぶ。
東晋時代の有名人といえば、王羲之(303年~361年)の人。
5代目皇帝 孝宗(在位344年~361年) 恒温が権力者だった時代。
蘭亭序 あまりにも有名な王羲之の書。
欠史八代
欠史八代なんていわれ、第十代崇神天皇は、実在するが、それ以前の天皇は実在しないという説もありますが、私は、実在説をとり、
1、古事記には、神武天皇の死後、長子の多芸志美美命は、神武天皇の皇后にあたる伊須気余理比売と結婚している。
2、古事記によれば、第6代の孝安天皇は、姪の忍鹿比売と結婚して、第7代孝霊天皇を生んでいる。
3、古事記・日本書紀によれば、第9代開化天皇は、父帝である第8代孝元天皇の死後、父帝の皇后である伊迦賀色許売命と結婚している。
そして、崇神天皇を生んでいる。
初期の天皇は、その土地の豪族の娘と結婚する例が多い。
都の場所は、初期天皇は、葛城地方の狭い範囲に置かれていた。
初期天皇の陵墓は、葛城地方に存在した。