高句麗

高句麗(紀元前37年~668年) 
 高句麗の起源は、漢王朝が設置した玄菟郡高句麗県に由来。
初代は、朱蒙 [東明聖王)といって、韓国のドラマにもでてきます。もともとは、扶余の王の庶子、他の7人の王子と対立して、亡命して
高句麗を建国とある。  時代はながれて、15代の王 美川王(300年~331年在位)  313年楽浪郡を攻撃した王である。

この王は、苦労人で、面白いエピソードをもつ   293年先代の王が、自分の父(王の弟)に犯意あるとして、死を賜ったとき、王宮を逃げていた。
                             その間市井でさまざまな苦労をしたとある。先代王の暴政で廃位しょうとしていた国相は、後の美川王を
                             探して、匿って、後王位につける。   こういった当時の時代背景があるというのは、面白い。  

313年、300年続いた楽浪郡帯方郡は中国本土の内乱によって、孤立化、高句麗によって滅亡。
結果・両郡を通じての西晋との外交・通商はとだえる。
朝鮮半島・倭は、統一した国家を形成するように、百済新羅伽耶大和朝廷へと時代の潮流は歴史の流れとなって、激動の時代へと
つき進んでゆくことになる。

高句麗は南下政策をとってゆくが、南の百済は楽浪・帯方の人・物を引き継いで、国としては強大化していった。