雑記

古代史の魅力というより、わからなさは、数学や科学とちがって、1+1は2にならないことです。
絶えず変化しているからです。それは、新しい遺跡の発見による解明が大事だからです。
卑弥呼の墓にしても、墓自身が発見され、副葬品その他が発見されれば、画期的なことといえます。
朝倉説が、有力ですが、その遺跡平塚遺跡の詳しい解明がひつようなのではないか。、

空白の4世紀(2)

前回に、続いて、王 義之について、なぜ詳しく書きたいか、1700年余前に、生まれた人々が、倭の国では、ぼんやりしている歴史を、実に詳しく
残っているからです。
本当は、王 義之というひとは、立場からいえば、軍人・政治家として、精進すべきで、本来は書などに、時間を費やす余裕などないはずなのです。
353年の永和9年という時代は、東晋の最も軍事力の必要な時。
北部に前蓁が、南下の脅威があり、
東晋内部でも、常に権力闘争があり、最終的には、皇帝の力が、衰退して、権力者の劉裕が、420年禅譲を受けて、宋朝が開かれることになる。

その頃倭は、中国の歴史書に、倭の五王と呼ばれた人たちが、倭を納めていた。
その中に、今話題になっている、仁徳陵、仁徳天皇がいる。

空白の4世紀

東晋の4世紀
 王 義之(303年~361年)
王 義之は、書聖とよばれ、唐の太宋の支持を得、有名な蘭亭序を残している。

304年 王 義之が生まれたころ、匈奴は、晋から離れ、独立して国を作った。
313年 晋の懐帝が平陽に連行される。
318年 東晋起こる。   王 義之15歳のころ。
                 

                 恒温という人物  347年 恒温は、蜀の成漢国を滅ぼし、李勢を捕虜にする。
                             354年 恒温の対抗馬として殷浩を起用したが、北伐に失敗し解任。
                             以後、国政を仕切るようになる。
                             373年 恒温 没  (恒温禅譲ならず。)
357年 中国の北部は、前燕 と 前蓁の2つにわれた。

420年 劉裕禅譲により、宋の武帝となり、西晋滅ぶ。


西晋という国は、100年ほど続いたわけですが、王 義之は、文人色が強く、あまり軍人・政治家としては、遜色がない。

新羅

新羅という国は、紀元前57年~935年まで続いた。
広開土王碑によると、この時期は、高句麗によって支配されている状況。
新羅の建国は、伝承によると、秦の苦役を避けて韓国にやってきた昔の逃亡者で、馬韓が東の地を
割譲した。言語は、秦人に類似している。
4世紀・5世紀は、高句麗に抑えられていたが、6世紀になってから真興王による領土拡大で、百済高句麗と互角になり、三国時代に入った。
7世紀は、倭を巻き込む激動の時代になってゆく。

ちなみに、韓国ドラマでは、この時期の英雄を描いている。

空白の4世紀

倭では、崇神天皇東晋では、王義之・百済では、近肖古王高句麗では、美川王などが、それぞれの国で4世紀半ばごろ、活躍している。

306年に西晋が滅び、313年に楽浪郡帯方郡が滅び、中国の王朝の支配から、 北部は高句麗、南部は、百済新羅三国時代に移ってゆきますが、

最も倭に近い国に、伽耶諸国があります。洛東江周辺の鉄器文化を基盤としており、4世紀には最盛期を迎えている。

4世紀後半は、高句麗好太王 倭は、神功皇后が現れ、三韓征伐といった、朝鮮半島全域をまきこんだ、高句麗対倭の勢力争いになっています。

神功皇后と好太王

神功皇后とは、仲哀天皇の皇后であり、母方は、新羅の王子アメノヒボコの末裔でもある。
神功皇后といえば、三韓征伐で有名ですが、仲哀天皇の急死後、熊襲を討伐し、朝鮮半島に兵を進めた。
新羅高句麗百済と征伐したとある。

その当時で、好太王碑という好太王の業績を称えた石碑がある。414年ごろの建設です。
碑文は、三段から構成。
      一段目は、朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来。
      二段目は、好太王の業績
      三段目は、墓を守る規定

倭に関しては、391年、新羅百済は、高句麗の属民で、朝貢していたが、倭が、391年、海を渡ってきて、百済加羅新羅を破り、臣民としてしまった。

         399年、百済は、倭と通じたため、百済を討つため、平譲に出向いた。そのとき新羅からも倭の侵入があるとのことで、高句麗に救援を要請した。 大王は救援する。

         400年、大軍を派遣し新羅を救援。新羅王都より倭軍退却、任那加羅に攻めたが、安羅軍逆をつき、新羅王都を占領。

         404年、倭は、帯方地方に侵入してきたが、これを討って大敗させる。
 

神功皇后の時代、391年に三韓征伐を開始したのではないか。
           



         

成務天皇

 13代成務天皇は、日本武尊の弟にあたる。
事績は、国の行政区画の整備、国造・稲置を任命し、国の行政のしくみを整えた。
朝鮮との関係はあまりなく、次代の仲哀天皇・神宮皇后のとき朝鮮・日本は、動乱の時期を迎える。