空白の4世紀(2)
前回に、続いて、王 義之について、なぜ詳しく書きたいか、1700年余前に、生まれた人々が、倭の国では、ぼんやりしている歴史を、実に詳しく
残っているからです。
本当は、王 義之というひとは、立場からいえば、軍人・政治家として、精進すべきで、本来は書などに、時間を費やす余裕などないはずなのです。
353年の永和9年という時代は、東晋の最も軍事力の必要な時。
北部に前蓁が、南下の脅威があり、
東晋内部でも、常に権力闘争があり、最終的には、皇帝の力が、衰退して、権力者の劉裕が、420年禅譲を受けて、宋朝が開かれることになる。
その頃倭は、中国の歴史書に、倭の五王と呼ばれた人たちが、倭を納めていた。
その中に、今話題になっている、仁徳陵、仁徳天皇がいる。
神功皇后と好太王
神功皇后とは、仲哀天皇の皇后であり、母方は、新羅の王子アメノヒボコの末裔でもある。
神功皇后といえば、三韓征伐で有名ですが、仲哀天皇の急死後、熊襲を討伐し、朝鮮半島に兵を進めた。
新羅・高句麗・百済と征伐したとある。
その当時で、好太王碑という好太王の業績を称えた石碑がある。414年ごろの建設です。
碑文は、三段から構成。
一段目は、朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来。
二段目は、好太王の業績
三段目は、墓を守る規定
倭に関しては、391年、新羅・百済は、高句麗の属民で、朝貢していたが、倭が、391年、海を渡ってきて、百済・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。
399年、百済は、倭と通じたため、百済を討つため、平譲に出向いた。そのとき新羅からも倭の侵入があるとのことで、高句麗に救援を要請した。 大王は救援する。
400年、大軍を派遣し新羅を救援。新羅王都より倭軍退却、任那・加羅に攻めたが、安羅軍逆をつき、新羅王都を占領。
404年、倭は、帯方地方に侵入してきたが、これを討って大敗させる。